老健OTの徒然日記

介護老人保健施設で働く作業療法士(OT)が感じたこと考えたことをツラツラと書いてます

生と死について

こんばんは、peridotです。

またもや前回から大分空いてしまいました。

徒然日記ですからね、気にせず気ままに書いていこうと思います(笑)

 

さて、今日のテーマと言うか、ふと思った事が【生と死】でした。

私が働く場所は対象が高齢者ばかりですから、何だかんだで【死】が身近にあります。

私が老健で働き出してはや6年経ちますが、両手では足りないくらい多くの方が亡くなられました。

直接死の瞬間を見ることは無いですが、心肺機能や覚醒がレベル低下していく過程や老衰していく過程は見る事があり、【死】と言う物を感じます。

 

【死】は必ず全員に等しく訪れるものなんです。

それが早いか遅いかは人それぞれですし、ある日突然訪れる事ももちろんあり得ます。

ウチの老健には80代90代の方々が大勢いらっしゃいます。

特に何かを意識してきた訳では無いと思いますが、長生きされている方々だと思います。

 

そんな方々の口からよく聞くと言うか、定期的に出てくる言葉として『早く死にたい』『こんな年まで生きてて(家族に)悪いなぁ』と言われる事があります。

 

私は4年前に父が亡くなり、今は親というと母だけです。

祖父母も父方の祖父は私が生まれる前に亡くなり、祖母は3年前に亡くなりました。母方の祖父は私が7歳の時に亡くなり、祖母は90歳を目前に今も元気でいてくれています。

 

私は【死】と言う物に対して悪い印象を持っていないので、事故や事件と言う突然の別れで無い限りは来るべくして来た時なんだと思っています。

でもだからと言って悲しくない訳じゃ無いです。

なので、母方の祖父の時も、父の時、父方の祖母の時も最期の時の事や葬儀の時の事って何だかんだで覚えています。

 

ちょっと話が脱線してしまいましたが、父や祖父母も最期の頃は当然ベッドの上での生活でしたし、話しかけても反応が無いことや、何を言ってるか分からないこともありました。

でも、『死んでいない、生きててくれてる』と言うただそれだけのことが嬉しいと言うか、安心感がありました。

私は【死】が悪い物とは思いませんが、死ぬとその人の姿・形は見えなくなってしまうので、どんな状態でも見て触れる事が出来る事は私にとって意味のある幸せな事だったんですよね。

 

老健で生活されている方達のご家族の中にも私と同じように感じる方がいるんじゃないかなと思うんです。

 

だからこそ、たまに聞く『(家族に)悪い』と言う言葉がすごく重いです。

『早く死にたい』に関しては、思うようにならない体や色々制限がある施設での生活を思えば、出てくる言葉だろうなぁと思います。

でも『(家族に)悪いなぁ』って言う言葉は、本人と家族との思いのズレを感じる瞬間なので、何と言っていいのか分からなくなってしまうんですよね。

 

私としては親として祖父母としてただそこに居てくれるだけで良いのに、って思ってしまうんですが、どうなんでしょう。

それに、こうした発言がでる方達って、やっぱりある程度認知機能が保たれている方達なんですよね。

 

こうした場面に出会う度に、人が生きること或いは死ぬことって本当に難しいなぁって感じます。

自分の身内じゃないからこそ余計に難しく感じるんでしょうけどね。

 

その人、一人一人にとって生きること・死ぬことって何なんだろう、どう在るべきなんだろうって、すごく考える時があるんですよね。

まぁ、答えは出ないんですけど。

 

本当に人によって考え方が違う繊細な問題だと思うので、多分答えがでることはないんでしょうね。

こんなことをツラツラと考えながら、自分はどう生きのるか或いは死ぬのかを想像してます(笑)

 

何が言いたいのか、すごく分かりにくい内容になってしまいました。

掘り下げていくとどんどん哲学的な話になっていきそうで、そうならないように端折った結果がコレですよ(笑)

私は人が生まれる瞬間をまだ見たことも経験したことも無いんですが、人が死を迎える瞬間はこうして近くで感じることが多いので、そうした瞬間に出会うとき、自分のこと家族のことを思う・考えるなぁって思い、自分でもまとまってないこのグダグダした思いを吐き出してみました(゚-゚)

 

何となく暗い話になってしまいましたが、読んで頂いてありがとうございました。

次はもうちょっと明るい話題で書きたいなと思います。

また間が空くでしょうが、思いついた時に思いついた事を書いていこうと思います(笑)