他職種との連携
こんばんは、peridotです。
今回は私の職場が常に抱えている問題が再発したので、そこについて考えてみたいなと思います。
前にも書いたんですが、ウチの老健には1~3階の各フロアがあり、フロアごとに介護士・看護師が働いています。
リハビリ職員は1階にスタッフルームがあり、フロア内で起きる出来事は職員や利用者様から聞く事が多いです。
なので、直接的に生活している場面を見る機会はリハ職には無いんですよね。食事やトイレ動作・入浴等々を見たいと思ったら時間を合わせて見に行かなければ見れない状態です。
で、何が起きたかと言うと。
リハビリの時間以外でも塗り絵や計算と言った机上課題であればフロアでも行う事が出来るんじゃないかとフロアに相談した所、そんな時間は取れないと一蹴されてしまったんですよね。
正直に言えば、出来ないなんて事は絶対に無いわけで、いくつかこういう風にやってみてはどうですかと提案したんですが、返ってくる返事は良い物ではなかったんです。
今回の発案者は私では無いんですが、似たような事は前からあったんですよね。
リハビリではこういう事をやってます、上(フロア)でも出来ませんか?→ 無理です の応酬(笑)
こういう時に思うのが他職種との連携ですよね。
この問題はどこにでもあることだと思うんですが、解決策はあまり聞いたことないです。
皆それぞれの立場で仕事をしているわけで、出来ることなら楽したいですよね。
リハビリからの要望は言うなれば追加の仕事になってしまうわけで、断りたくなりますよね。
その気持ちはもちろん分かりますし、私だって楽したいです。
だからこそ少しでも負担にならないようにと可能な範囲で提案しているつもりなんですけど、なかなか上手くいかないです。
フロアから見るとリハビリの我が儘として映ることもあるようで、結果としてフロアスタッフとリハビリの関係性が悪くなると言う…。
職員同士の関係性が悪くなる分には仕事に支障がなければまだ良しと考えてますが、利用者様が関係してる事なんだけどなぁって思ってしまうんですよねぇ。
お客様は神様だなんて事は言いませんし、高齢者である以上飛躍的に機能向上するとも考えていませんが、『今現在を少しでも維持できたら』とは思うんです。
そのためにはその利用者様に関わる全ての人が協力すべきではないのかなと考えるんです。
なので、もちろん私たちリハ職もフロアからの要望には可能な限り応えていくべきだと思いますし、手助け出来る部分は手伝っていいと思うんです。
私のこの考え方が絶対に正しいとは思ってませんし、上手くいくとも思えないですが、協力・連携を取ることは必要だと考えてます。
問題はどうやって連携を取っていくか、なんです。
先に書いたように、お互いに負担になるとやりたくないんですよ。
負担にならない程度で、継続できる内容にすると話が通りやすい。
でもその匙加減が難しい。
どんな言い方でも下手に主張すると独り善がりになってしまって、距離を作ってしまうんですよね。
ホント難しい……。
と言うわけで、今回のこの話題に答えも結論も出せてないです(笑)
でも考えないといけない部分だと思うので、ちょこちょこ再発するフロアとの衝突時に考えれる所まで考えて、出来ることからコツコツと(笑)やってみたいと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
また次回、何か思い付いたら書いていきたいと思います。
生と死について
こんばんは、peridotです。
またもや前回から大分空いてしまいました。
徒然日記ですからね、気にせず気ままに書いていこうと思います(笑)
さて、今日のテーマと言うか、ふと思った事が【生と死】でした。
私が働く場所は対象が高齢者ばかりですから、何だかんだで【死】が身近にあります。
私が老健で働き出してはや6年経ちますが、両手では足りないくらい多くの方が亡くなられました。
直接死の瞬間を見ることは無いですが、心肺機能や覚醒がレベル低下していく過程や老衰していく過程は見る事があり、【死】と言う物を感じます。
【死】は必ず全員に等しく訪れるものなんです。
それが早いか遅いかは人それぞれですし、ある日突然訪れる事ももちろんあり得ます。
ウチの老健には80代90代の方々が大勢いらっしゃいます。
特に何かを意識してきた訳では無いと思いますが、長生きされている方々だと思います。
そんな方々の口からよく聞くと言うか、定期的に出てくる言葉として『早く死にたい』『こんな年まで生きてて(家族に)悪いなぁ』と言われる事があります。
私は4年前に父が亡くなり、今は親というと母だけです。
祖父母も父方の祖父は私が生まれる前に亡くなり、祖母は3年前に亡くなりました。母方の祖父は私が7歳の時に亡くなり、祖母は90歳を目前に今も元気でいてくれています。
私は【死】と言う物に対して悪い印象を持っていないので、事故や事件と言う突然の別れで無い限りは来るべくして来た時なんだと思っています。
でもだからと言って悲しくない訳じゃ無いです。
なので、母方の祖父の時も、父の時、父方の祖母の時も最期の時の事や葬儀の時の事って何だかんだで覚えています。
ちょっと話が脱線してしまいましたが、父や祖父母も最期の頃は当然ベッドの上での生活でしたし、話しかけても反応が無いことや、何を言ってるか分からないこともありました。
でも、『死んでいない、生きててくれてる』と言うただそれだけのことが嬉しいと言うか、安心感がありました。
私は【死】が悪い物とは思いませんが、死ぬとその人の姿・形は見えなくなってしまうので、どんな状態でも見て触れる事が出来る事は私にとって意味のある幸せな事だったんですよね。
老健で生活されている方達のご家族の中にも私と同じように感じる方がいるんじゃないかなと思うんです。
だからこそ、たまに聞く『(家族に)悪い』と言う言葉がすごく重いです。
『早く死にたい』に関しては、思うようにならない体や色々制限がある施設での生活を思えば、出てくる言葉だろうなぁと思います。
でも『(家族に)悪いなぁ』って言う言葉は、本人と家族との思いのズレを感じる瞬間なので、何と言っていいのか分からなくなってしまうんですよね。
私としては親として祖父母としてただそこに居てくれるだけで良いのに、って思ってしまうんですが、どうなんでしょう。
それに、こうした発言がでる方達って、やっぱりある程度認知機能が保たれている方達なんですよね。
こうした場面に出会う度に、人が生きること或いは死ぬことって本当に難しいなぁって感じます。
自分の身内じゃないからこそ余計に難しく感じるんでしょうけどね。
その人、一人一人にとって生きること・死ぬことって何なんだろう、どう在るべきなんだろうって、すごく考える時があるんですよね。
まぁ、答えは出ないんですけど。
本当に人によって考え方が違う繊細な問題だと思うので、多分答えがでることはないんでしょうね。
こんなことをツラツラと考えながら、自分はどう生きのるか或いは死ぬのかを想像してます(笑)
何が言いたいのか、すごく分かりにくい内容になってしまいました。
掘り下げていくとどんどん哲学的な話になっていきそうで、そうならないように端折った結果がコレですよ(笑)
私は人が生まれる瞬間をまだ見たことも経験したことも無いんですが、人が死を迎える瞬間はこうして近くで感じることが多いので、そうした瞬間に出会うとき、自分のこと家族のことを思う・考えるなぁって思い、自分でもまとまってないこのグダグダした思いを吐き出してみました(゚-゚)
何となく暗い話になってしまいましたが、読んで頂いてありがとうございました。
次はもうちょっと明るい話題で書きたいなと思います。
また間が空くでしょうが、思いついた時に思いついた事を書いていこうと思います(笑)
人との距離感
こんばんは、peridotです。
ちょっと久しぶりになってしまいました。
今回からは本当に思ったままを綴っていこうと思います。
で、その第一弾が【人との距離感】です。
宗教家の方達のには怒られるかもしれませんが、私は総ての人が仲良く出来るわけが無いと思ってます。
もちろん仲良く出来るならそれに超したことは無いです。
でも、私たちは人ですから感情があるわけで、感情がある以上どんなに頑張っても苦手な人っていると思うんです。
苦手って濁しましたけど、つまりは嫌いなタイプ、生理的に受け付けないと言うレベルの話です。
もちろん私にも苦手な人・嫌いな人はいます。
ぶっちゃけた話、職場の人の中にも対象者(利用者様)の中にもいます。
働く場所は選べても、そこで働く人や対象者は選べません。
そこで大事なのが人との距離感だと思うんですよね。
私は苦手・嫌いな職員とは必要な事しか話しません。
その際はちゃんと笑顔で顔を見て話します。
やはり礼儀は大事ですからね。
対象者の中にいる苦手・嫌いな方に対しても、もちろん嫌な顔なんて出さず、ちゃんとその方の事を考えてリハビリを行います。
笑顔で声かけするよう心がけてますし、冗談を言ったりふざけたりする事もあります。
出来ることなら避けたいし関わりたくはないですけど、【仕事】ですから。
プライベートな事だったら完全に切り捨てている所ですが、私はその場所で【仕事】をしているわけで、お給料をもらってますからね。
これってすごく大事な事だと思うんです。
私たちはお給料をもらって働いているんです。
特に療法士である以上『リハビリの先生』と言う目で見られているわけで、リハビリのプロフェッショナルでなければいけないわけです。
そんなプロが自分の対象者を差別するなんてどうでしょう?
私の職場に、A様にはニコニコ笑顔で話しかけるのにB様には無表情で声も淡々としている療法士がいるんです。
この療法士はA様B様だけでなく、結構人に対する差が激しいんですよね。
今までニコニコ笑顔で話しかけていたのにある時をきっかけに無表情で淡々とした態度になる、なんて事もある療法士なんですよ。
気持ちは分かります。
私も嫌いな人はどんなに頑張っても嫌いなので、冷たくなる気持ちも確かに分かるんです。
でも、私たちは療法士で、プロフェッショナルですよね。
遊びに来ているわけでは無くて仕事に来ているわけで、そこに自分の感情を優先して出すのってプロ失格じゃない?って見ていて思ってしまうんです。
私も裏では散々好き勝手言いますけど、リハビリの時間は【療法士と対象者】と言う距離感・関係性を意識するようにしています。
これは対象者だけじゃ無くて、職員や実習生・ご家族の方達に対しても同じです。
それぞれの立場や自分との相性、関わる密度等々を考えて、自分が苦しくない(イヤにならない)距離を取ってないと、いずれどこかで崩れちゃうと思います。
先に出した療法士がある時をきっかけに態度が変わってしまったのは、その対象者との距離感を間違えたからじゃないかなと思うんです。
さらに言ってしまえば、この療法士は人との距離感を取るのが苦手・下手なんだろうなぁっと思ってます。
その結果、嫌いな人(対象者・職員・実習生)の事はストレスになるくらい嫌いますし、逆に好きな人の事はどこまでも甘やかします。しかも妙な責任感を持つと言うか依存してしまって、リハビリの担当を変えれないんですよね。
C様は私じゃなきゃダメです、ってまるでC様が依存しているかのように言いますが、実際は療法士が依存しているという状態になることがあります。
こういう場面を見る度に療法士は【あくまで療法士】と言う距離・関係を超えてはいけないと思いますね。
こうして書いてみると人の振り見て我が振り直せじゃないですけど、自分のことも振り返るきっかけになっていいですね。
どうせ仕事をしなきゃいけないなら、少しでも自分にとって楽な環境でいられるように、人との距離感、大事にしたいですね。
でわでわ、最後まで読んで頂きありがとうございました。
目標の立て方
こんばんは、peridotです。
【評価】について前回ツラツラ書いたので、今回は【目標】について書いてみようと思います。
対象者の評価をして、結果を考察したら、次はそこから対象者の【目標】を設定していきます。
この時忘れないで欲しいのは、【誰のための目標か】と言う事です。
自分で勝手に『この人はこうあるべきだ』、『○○が出来るようになったら良いんじゃないか』と決めつけてはいませんか?
ここからはあくまで私の職場(老健)における目標設定の考え方なので、全ての領域に当てはまるとは限りませんが、参考になれば幸いです。
目標を立てる中で対象者本人の希望(ニーズやデマンド)を無視する事は出来ません。
ですが、認知機能の低下により本人の希望が聞き取れ無かったり、明らかに無理な希望(デマンド)だったりする事が多々あります。
そうなるとニーズ(客観的に見て必要としていること)を考えていかなければいけません。
しかし、ニーズはあくまで客観的に見て必要とすることなので、先に書いた『こうあるべきだ』とか『○○が出来るように』と言う目標の押し売りをしてはいけないんです。
評価の所でも書きましたが、対象者がどういう人でどんな生活をしてきたのかを無視してはいけませんし、【予後予測】もしていかなければいけません。
若い方であれば、希望に満ちた目標を立てる事も出来ますよね。
職場復帰とか、車の運転したいとか、旅行に行けるように、なんてデマンドがいっぱい出てくるんじゃないかと思います。そこからニーズを引き出していく事も出来ます。
しかし、老健には高齢者と呼ばれる世代の方達しかいません。
高齢の方達の予後ってどう考えますか?
在宅復帰に力を入れている老健はもう少し選択肢が広がるんですが、私の職場がある地域はどんどん高齢化が進んでいて、老老介護が当たり前だったり、在宅介護が続けられるほどの在宅サービス(受け皿)が無かったりするので、選択肢が限られています。
そのため高齢者の予後として、私は極端かもしれませんが、やはり【最期(死)】を考えます。どんなに努力をしても明らかに最期の時が近付いて来ている世代なんです。
なので、リハビリをして一時的に機能向上しても、また低下してくることは避けられないと考えています。
そんな状態の中でニーズを考えていく・見付けていく事になります。
つまり何が言いたいかと言うと、
①対象者が継続的に生活する場所はどこになるのか
②現在のADL状況は妥当かどうか
③向上なのか維持なのか
この3つを意識して考えて欲しいと言うことです。
家に帰れるのか、施設での生活が主となるのか、この差はかなり大きいですよね。もちろん誰だって自分の家が一番です。
でも、家で一人になってしまったり、家族が介護が出来なかったりと言う環境要因がある場合、在宅復帰はかなり難しいですよね。
次にADL状況ですが、これは老健だからこそ出来ること・出来ないことがあると言うことです。介護士さん達が必ずいるので、介護士さん在りきのADL状況と思わなければいけません。
最後に向上なのか維持なのかは、機能についてですね。対象者の持っている身体機能・認知機能と言った能力の向上を目指すのか維持を目指すのか、の違いと言う事です。
この3つを意識して、さらに行き着く先は【最期の時】と言うことを踏まえると、【未来を見越した今現在】が見えやすくなるのかなと思います。
ちなみに、【最期】と繰り返してますが、これは最後には人は死ぬんだから何もしなくていいじゃない、と言う意味ではありませんよ?
対象者やその家族にとってその時をどういう形で迎える事が最善になるのか、と言う意味です。
人も動物です。生き物です。必ず最後には死が待ってます。
人は死に向かって歩いてるんです。
若い内は死というゴールが遠い事が多いから見えづらいんです。
でも年が増える毎に確実にちょーっとずつ見えるようになるんです。
高齢者と呼ばれる方達の多くがそのゴールが見えてきてます。
その距離、あとどれぐらいと見えるようになってきたその距離をどう進むのか、が私が繰り返す行き着く最期の時です。
最近では終活と言う言葉もあるくらいですからね。
最後までその人らしく生きる。
そのためにOTとして出来ることは何かを考えて欲しいなと思います。
さてさて、ちょっと重い話も出てしまいましたが、どうでしたか?
【目標】の立て方・考え方の参考になるでしょうか?
重い話が出るくらい、リハビリって対象者の生活・人生に直結してます。
責任のある仕事だと思うので、それをちょっとでも実習を通して感じてもらえるといいなと思います。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。
ひとまずこれで実習・実習生に関してのあれこれは書けたかなと思います。
なので、次回からはホントに思いついた事とか、職場であった事とかを書いていこうと思います。
何のために評価するのかを忘れないで
こんばんは、peridotです。
今回は前回書ききれなかった【評価】について私の考えを書いてみたいと思います。
私たちリハビリの仕事は【評価】に始まり【評価】に終わる、と私が学んだ学校の先生もよく語っていました。
なるほど、と初めて聞いたときも思いましたが、仕事をしている今でも間違いない言葉だと思います。
どの分野・領域で仕事をしようと、リハビリの対象者がいる以上【評価】は必ずしなければいけない項目です。
ただし、【何を評価するか】は対象者によって違います。
私たちは学校で色んな評価の種類・方法を学びますよね。
何故でしょう?
何故【評価】が必要なんでしょうか。
それは繰り返し大事なことだと伝えている【対象者を知る】事に繋がるからです。
さらに評価方法として確立された手技・手法を使うことで【より客観的な視点】で対象者の事を知ることが出来ます。
実習では評価方法を実践することももちろん重要な事ですが、【評価した結果】から分かる事・読み取れる事が何かを考えていく事が大事ですよね。
そこでは前回ノートの記事で書いた【掘り下げていく】【考察する】事が活かされてきます。
【評価】をして、その結果を【考察】して私たちは【目標】を立てていきますよね。
言葉ではとても簡単に見えますよね。
でも実際に実習していると、簡単そうに見える【目標】が中々見付けられないんです。
それは何故か。
今回の本題はここです。
難しく感じるかもしれませんが、【評価】ではなく、【評価する事】に集中してませんか? と言うことです。
繰り返しですが、対象者を知る上で【評価】は大事なことです。
でも大事だからこそ【評価する事】、あるいは【その結果】にばかり目を向けてしまうと対象者が見えなくなってしまいます。
私の勤務先である老健を元にお話ししますが、ウチの老健では評価をするためのちゃんとした検査道具という物がありません(笑)
それでも学生さんはROM・MMT・感覚・HDS-R・FIM等々は行えるので、必要と判断した物は実際にやってもらって、結果を出してもらってます。
急性期・回復期とかの病院で評価する項目と比べれば明らかに少ない項目数ですが、それでも【評価】をした後は 何でそこに行った!? と言いたくなる(実際聞きます)【目標】を出してきます。
大体1回目は必ず突っ込んでます(笑)
そんな【目標】に行き着く理由が先ほど書いた【評価する事】【その結果】にばかり目が向いているから、なんです。
【評価】をすると、大体結果は数字で出てきますよね。
これが意外とくせ者で、数字で出てくるとその数字ばっかり追いかけてしまうんです。
対象者自身の事は抜きにして、可動域がこれぐらいあって・ここの筋力がこうで・認知面はああで・FIMではここが低いから……って言う数字だけを基準にして勝手にその人の目標を作っちゃうんですよね。
その結果、何でそこに行った!? と言う突っ込みがバイザーから出てくるわけです。
私たちが【評価】しているのはリハビリの【対象者】ですよね。
出てきた数字はあくまで数字でしかないんです。
対象者の身体機能面・認知機能面・ADL状況を客観的に見るために出した数字でしかなくて、【対象者】はその出てきた数字だけで成り立っているわけではないですよね。
他にも年齢・性別はもちろん、どんな性格でどんな仕事をしていてどんな家庭で生活してきたのか…等々、その人しか持ち得ないその人だけの【情報(生活歴・バックヤード)】が加わってようやく【対象者】が見えてくるんです。
そこを加味しないと、【対象者】によって最善の【目標】が何なのか考えられないですよね。
で、そういう【情報】って面談・面接って形で聞き取りしても中々しっかり聞き出す事は難しいです。
と言うことで、ここで大事になってくるのが【コミュニケーション】ですよね!
些細な会話の中で分かる事って本当に多いです。
意外な職歴とか、趣味・嗜好が分かるだけじゃなくて、その人の性格なんかも感じることが出来ます。さらには認知機能面に関連した内容が聞ける事もあるので、こうした【情報】はこれまた【気付き】としてデイリーあるいはケースノートに書いていけばいいんです。
どうですか?
色んな事が繋がってきましたね。
何個か前の記事で次は評価(デイリーノート・ケースノート)についてと書いてたと思うんですが、私が一纏めにしていた理由が少しでも伝わったでしょうか。
何度でも言いますが、【評価】は対象者を知る上で大事な手段です。
でも、【評価する事】や【その結果】に囚われないようにして下さい。
私たちは【対象者を知る】ために【評価】をしているんです。
余談ですが、ここまで何様な感じで偉そうに書いてますが、当然私も【評価する事】と【その結果】に固執してしまった一人です(笑)
でも実習やってる当時は全くそのことに気付けませんでした。
実習先もバイザーも二度と行きたくないし会いたくないぐらいトラウマですが、その時担当させて頂いた対象者様達には 未熟な学生である自分の相手をして頂いたのに、自分は対象者様の事を何一つ見てなかったんだなぁ と今でも申し訳ない気持ちになります。
それも経験と言えばそこまでですけど、対象者様にとっては貴重な時間の一部を割いてもらっていたわけですから、学生と言えど何か出来ることがあったんじゃないかなって思うんです。
実習って大変ですけど、大変な実習に来てるからこそただ過ぎるのを待つんじゃなくて、何でもいいから得られる物が1つでもあれば良いと思うんです。
そのためには実習に行く前に色んな情報・心構えを持っていた方が良いんじゃないかと私は思います。
このブログがその参考・助けになればいいなと思います。
えー、長くなりましたが、今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。
【評価】については書けたので、次は【目標】について書いてみたいと思います。
デイリーノート・ケースノートの書き方
こんばんは、peridotです。
この記事、1度書いてたんですが、ミスってデータ飛ばしちゃいました(つд`)
なのでもう一回書くわけですが、同じように書けるか怪しいです(笑)
今回は実習に必ずついて回るデイリーノート・ケースノートの書き方について書いてみる訳ですが、私は5回行った実習においてノートをまともに書けた試しがありません(笑)
特に私は見学実習・評価実習1期目がどちらも精神領域だったこともあり、その後行った身障領域でのノートの書き方が一切分からなかったです。
実際に実習に行った経験のある学生さんは分かるかと思いますが、精神領域と身障領域ではノートの書き方にすごく差がありますよね。
私はこの差について行けなかったです。
その結果の1つとしてバイザーからボロカスに言われたわけですが(笑)
そこで、この記事は私が実際に作業療法士として働き始めた事で分かったことや、学生さんを見るようになってこういう風に考えてもらえたら良いのにと思ったことを元に書いてます。
あくまで私の考えと好みが主体ですので、こう書けば良いと言う答えではなく、参考にしてもらえると嬉しいなと思います。
では早速ですが、デイリーにしろケースにしろ、ノートってその日にあったことを書きますよね。でもそれがあったこと・見たことだけを書いていたのでは意味が無いんです。
私もバイザーに必ず言われましたし、学生さんによっては私も言います。
「ノートは感想文でも観察日記でもないからね」
痛い言葉ですよね。
そんなつもりで書いてないからこそ余計に痛く刺さるんですよね。
その後にフォローが有るか無いかで学生さんのモチベーションって凄く変わるんですが、私はフォローしてもらえませんでした。
自分が書いたノートがダメなことは分かっても、何がダメだったのか分からなかったんです。コミュニケーション下手過ぎてバイザーとの関係も良くなかったですしね。
それでも意を決してどう書けばいいのか聞いたら、返ってきた言葉は「そんなことも分からずに実習に来てどうするの」でした。心折れますよねー。
おかげで実習中ひたすら悪循環でした。だってどう書けばいいのかも分からず、自分の何が出来てないのかも言ってもらえずにただ「これじゃダメだ。出来てない」とだけ言われても、精神的に余裕もない状態だと一層書けないですよね。
私に足りなかった物、私が学生さんにするフォロー、同じ物です。
それは【何故?(何で?)】と言う疑問を持つことです。
実習に行くと、バイザーあるいは他のOTの先生について対象者のリハビリを見学させて頂きますよね。その時、対象者の情報(年齢・性別・疾病・障害名等々)と、リハビリの内容(いつ・どこで・何を・どのように行ったか)についてメモを取ります。これを元にノートを書くんですが、私もそうでしたがこの内容だけを書いていたのでは観察日記にしかならないんです。
ノートを書くときに大事なことは、【疑問を持つ】ことでその疑問に対する自分なりの答え【考察】を書くことだと思います。
よくよく考えれば疑問っていっぱい出てくると思うんです。
何故その時間にリハビリをするのかな、何故その場所でリハビリするのかな、何故あの道具を使うのかな、何故あの動きになるのかな等々。
表面的な部分だけでもこれだけすぐに出てきます。
対象者のこととなればもっと出てきますよね。何であんな事言うのかな、何で車椅子なんだろう、何でこの動きが出来ないのかな等々。
時間とか場所とか車椅子とかそんなことまで、と思うかもしれませんが、何かしらの理由があるはずで、それを療法士が考えて行っている以上立派な疑問として成り立ちます。
疑問が出てきたなら、そこから大事なことが【考察】することです。考察って言うと難しく感じるんですが、私はこれを【掘り下げて考える】と言ってます。
どちらにせよ え? と思うかもしれませんが、ようは 何故?何で? を繰り返すんです。
例えば、
何故リハビリ室でリハビリするのかな
→使っていた道具が必要だからかな
→何であの道具が必要なんだろう
→こういう動きがしたいのかな、こっちの動きかな
→じゃあ動きを練習する理由は何だろう
→あの動きが出来るようになったら何が出来るだろう
まだまだ出来ますけど、こんな感じと言う一例です。
私の嫌いな身障領域の雰囲気を出したつもりです(笑)
この何で?を繰り返すと結果的に他の疑問の答えに行き着いたり、新しい気付きに行き着いたりと、色んなことを【繋げて考える】ことが出来るようになっていきます。
バイザーがノートに書いて欲しいことってそこだと思うんですよね。
どれだけの事に疑問を持てるかです。
過去に来た学生さんの話です。
認知症の方ですぐに怒って大きな声を出す方のリハビリを見学してもらったら、その方についてノートでも口頭でも何も触れて来なかったんです。
すごく書きやすいと思うんですよね。何故怒るのか、何故大きな声を出すのか、気になりませんか?
でもその学生さんは何も書いて来なかったので、逆に聞いたんです その方を見てどう思った? と。そしたら返ってきた言葉は「そういう人なんだと思っただけで、特に何も」でした(笑)
さすがに頭抱えましたねー。そこからその学生さんの考えを理解するために、私の好きな掘り下げて考える作業を始めましたよ。そういう人て何?から始まり、声を出すことやすぐに怒ることが一般的なのか、その方がどうやって生きてきたと考えたのか等々を聞いて、分かったことは、学生さんは認知症のその方の今現在リハビリをやっているその時間しか考えてなかったんです。
思えばこれも思い当たる節が私にもありました。
目の前のことしか目に入ってないから、その他のことを【想像(予想)する】ことが出来てないんですよね。ただこの学生さんは余りにも視野が狭くて本当に困りましたが(笑)
なぜこの話を出したかと言うと、疑問を持つ事って、つまりいかに対象者に関して【気付くこと】が出来るかにかかってるからです。
先の認知症の方の話だと、大きな声をずっと出しているのか・出すタイミングがあるのかで大きな差が出来ますし、怒るのもどう言う時にどんな怒り方なのかでも違いがありますよね。そこをリハビリの場面で【気付けた】なら、そこからさらにその方の【日常生活】について【想像(予想)】してみると、【疑問(何で・どうして・どうやって)】がいっっっぱい出てきませんか?
リハビリの場面で気付いた色んな【疑問】を【掘り下げて】行くこと、対象者の【日常生活】を【想像する】こと、このどちらかでも書けていたらノートの意味がすごく出てくると思います。身障領域だとそこから評価方法だとか考えられるリハビリのメニューを書くとポイント高くなりますよね。
さらに余力がある学生さんは、2回目3回目と繰り返し見学させて頂いている対象者に関しては、【今までとの違い】を【気付ける】ように意識すると新しい【疑問】が出てくるんじゃないでしょうか。
対象者に実際に触れさせて頂く事で分かる事ももちろん多いですが、どうですか?
見学するだけでも自分が意識することで対象者の色んな事が見えてくると思いませんか?
なので、私は学生さんに対象者だけじゃなくOTの様子も含めてリハビリの時間何をしていたか全部メモを取るように言います。対象者の服装からOTの声かけの仕方や態度、対象者と話してる内容など全てです。
これは【疑問】や【気付き】を見付けるために【意識すること】を練習するためです。最初からは出来ないですし、全部ってのはムリだと私も思ってます(笑)
でも全部メモしようという気持ちになることで、どんなことでも見逃さない・聞き逃さないようにしようと強制的に【意識】しますよね。
そうして書いてくるノートにはどんなことが書かれているのか、どんなことに気付いて・疑問を持って・考えて・想像したのかなーって思いながら学生さんのノートを見るようにしています。
さて、大分長くなりましたが、ちょっとでも考え方の参考になったでしょうか。
少なくとも私はこの考え方が出来てたらもう少しまともなノートが書けたんじゃないかなぁと今でも思います。もう実習にも当時のバイザー達にも決して会いたくはないですが…(^◇^;)
でわでわ、最後までお付き合い頂きありがとうございました。
次は書ききれなかった【評価】について書いてみようと思います。
臨床実習の意味を考えてみる
こんばんは、peridotです。
さて、今日は【実習】について持論を展開していきたいと思います。
多分これからの内容って本当に私の主観による一方的な考えなので、鵜呑みにしないで下さいね(笑)
まずリハの実習って大体どこの学校でも3種類だと思います。
見学実習・評価実習・長期(臨床)実習と呼ばれる事が多いと思います。
それぞれの実習を通して急性期・回復期・維持期・精神・小児等々の作業療法士が活躍している色んな現場の内のいくつかを経験する事になるわけです。
どこに行かされるかは学校の先生次第ですし、身障系・精神系みたいに大きな分野で分けたときにどちらも実習に1度は行ってますと言う実績も残さなきゃいけないらしいので、満遍なく実習に行くことになると思います。
ちなみに私の経歴は↓の通りです。
見学実習(1週間):精神科の病院(県内)
評価実習(3週間):①精神科のデイケア(県外)
②回復期・維持期の病院(県内)
長期実習(8週間):①県下最大の回復期病院(県内)
②山間部にある総合病院(県外)
あ、前の記事で書いたボロカスに言われたり適応障害起こすレベルでボロボロになった実習先は評価の2期目と長期の1期目です(笑)
どちらも身障領域だったことも有り、元々あまり好きじゃなかったんですが、おかげさまで身障領域嫌いです(笑)
でも本当に実習って急性期とか回復期とか精神科とか、その領域のイメージを作るので、実習先が持つ責任も本当はすごく大きいと思うんですよね。
まぁそこに関してはまた別の機会にツラツラと書きたいと思います。
話を戻して、つまり学生をやってる間に4~5回くらい実習に行くわけです。
そこで何をするかは見て字のごとくで、見学実習は見学しに、評価実習は評価をしに、長期実習は実践をしに行くんです。
今回の記事で言いたかったのはここで、実習って確かに見て字のごとくでなんです。それぞれの実習の目的・目標があるのは間違いないですし、それを達成することも大事なことです。
つまり、学校で得た知識を実際に試すために実習をするわけで、勉強しに来ている事は大前提なんです。
そこは忘れちゃいけない所です。
でも、実習はそれだけでじゃないんです。
実習に行った先がどう言う役割を持つ場所なのかを知る事や、バイザーも含めて作業療法士として既に仕事をしている人たちが、その場所でどういう仕事をしているのかを見て・知る事も結構大事なんです。
それが将来のイメージにもなっていきますし、私みたいに絶対身障領域には行かないと言う決意が出来たりもします(笑)
リハビリとしての作業療法と、職業としての作業療法士を知るって感じですかね。
そこで自分の目標となる場所(領域)や療法士を見付けられると頑張れますし、逆に私みたいにこの場所(領域)だけは行かない・こんな療法士にはならないって言う経験も将来の選択肢を絞る材料になります。
そうやって自分が目指す職業の現実を知ることも実習をする意味の1つだと思います。。
そしてもう1つ大事なことがあります。
それが【コミュニケーション】の所でも書いた自分の課題を見付ける事なんです。
今の自分に足りてない物は何か、出来てない部分は何かを知る事です。
それがどれぐらい足りないのか・出来てないのかを自分で気付くことが実習をする大きな意味だと思います。
私は自分がそうだったからこそ余計に思うんですが、知識や技術は後から付いてきます。でも後から付いてきたきっかけは実習がうまくいかなかったからです。
ボロカスに言われてボロボロになって、イヤな思いをして学校辞めたいとすら思いましたけど、でもその根底にあるのは私の落ち度だったんですよね。
私が出来ていない事が多すぎて、その結果バイザーを呆れさせちゃったんです。呆れたバイザーが私の相手をするのが嫌になっていって、言葉がどんどんキツくなっていったんじゃないかなーっと今では思ってます。
実習でイヤな思いをすることも自信を無くすこともあると思うんですけど、それをただのイヤな思い出にするんじゃなくて、そこに至る原因を突き詰めていくと自分に行き着く事が多いです。それが課題であり、超えないといけない壁なんです。
その課題や壁は人それぞれで、純粋に知識が足りないのもそうでしょうし、私みたいにコミュニケーションが壊滅的だったとか、心構えの問題だとか、物事の捉え方の問題とか本当に色々です。
そこに気付く・見付けることが出来たら、たとえ実習の評価は低くても、職業人となる上ではすごく大事な物を見つけたと思って下さい。
これが実習をする一番の意味だと思ってます。
あと、たまに何故か自信満々でやって来る学生がいるんですけど、実習で100点満点なんてあり得ませんからね。自分は出来た・完璧だと思えるなら、それは自己満足でしかないと思います。
私たちの仕事は人を相手にする仕事です。物や機械相手の仕事じゃない以上、100%上手くいくなんて無いです。
少しでも対象者に寄り添えるように出来る限りの努力をしても、どんなに頑張ってもその対象者にはなれないので、その方が本当は何を感じているのかどうしたいと思っているのかを100%理解することは出来ないですよね。100%の理解が出来ていないのに100点なんておかしくないですか?
だから私たちの仕事って生涯勉強なんだと思います。
少しでも100%に近づけるために日々努力・日々研鑽なんじゃないかと思います。
格好良く言ってますが、だからって私勉強会に出たりとか論文読んだり書いたりとか、そういう事は一切しておりません(笑)
でも今いる職場で、そこで関わる対象者の方たちに対して私が出来る最大限で応えていきたいと思ってます。なので分からない事や気になったことはすぐに調べてます。
最後ちょっと脱線しましたが、私の経験から学んだ実習の意味、少しでも伝わってたらいいなって思います。
長々と読んで頂きありがとうございました。
次は実習繋がりで【評価(デイリーノート・ケースノート)】について思うところを書いてみようと思います。